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本紹介『巌窟王』論(利用者さん記事紹介)

こんにちは!サック就労移行支援センターです。
利用者さんがプログラムで書かれた記事を紹介いたします✨

「本紹介『巌窟王』論」 PN:ガニメデさん

小説に限らず、海外の作品は訳者によって表現が異なる。有名なものは映画『コマンドー』だろう。アーノルド・シュワルツェネッガー主演のこの映画は、字幕と吹き替えで言葉が全く異なる。コマンドーを好んで見る人々の多くは、吹き替え版を好んでいる。日本に入ってくる途中で表現が変わるものは数多いが、それ以前の問題の作品も少なくない。その一例としてあげたいのが『巌窟王』である。

アレクサンドル・デュマ著のこの作品は、しがない船乗りのエドモン・ダンテスが無実の罪で投獄され、監獄のあるシャトー・ディフの塔の宝を手に入れて脱獄し、『モンテ・クリスト伯』を名乗り自分を陥れた者たちに復讐する———という、世界で最も有名な復讐譚と言って差し支えないだろう。あらすじの通り人間の感情むき出しの重苦しい小説ではある。この作品自体に文句はない。しかし最近本屋で見かけたのだが、なんとこの巌窟王、児童小説になっているのだ。

「このドロドロとした復讐の物語を児童小説として出していいのか?」と思ってあらすじと内容をざっと見た。驚くべきことに、この物語はエドモン・ダンテスがシャトー・ディフの塔から脱獄した時点で終わっているのである。つまりその本は、巌窟王で最も重要な『復讐』の部分を丸ごとカットされていのだ。

思ったのは、『これは巌窟王ではないのでは?』という疑問だ。例えば桃太郎が、犬猿雉をきび団子でお供にして、鬼ヶ島へ向かったところで『我々の戦いはこれからだ!』というオチで終わったら誰も納得しないだろう。一番の目的である鬼退治を『残酷だから全部カットで』なんて言われても納得いかない人は多い。巌窟王も同じだ。この物語はエドモン・ダンテスが自分を(おとしい)れた者たちに復讐する部分が主となっている。それをカットしてただの冒険小説にしてしまったら、『じゃあそれは巌窟王である必要はない』となってしまう。主人公が苦難を乗り越えて宝を手にする。こういう物語であれば世の中にはいくらでもある。わざわざ巌窟王を持ってきて改変してまで作る作品ではない。

もう一つ、仮にこれを巌窟王と言い張って世に出して、それを読んだ人々は何を思うのだろうか。まず巌窟王を知っている人なら、この本の異常性に気づくだろう。なんたって巌窟王の一番の見どころである復讐の部分が丸ごとカットだ。納得するはずがない。

初めて読んだ人は気が付かないだろう。しかしこの話を気に入って、原作に触れたらどう思うだろうか。自分が読んでいた巌窟王には続きがあって、しかもそれは自分を陥れた相手への残虐な復讐だ。死よりもつらいエンディングが、陥れた者たちを襲うことになる。これで問題になるのは、『児童小説は噓をついていた』という認識が生まれることである。現代は小説を読む人は確実に減っている。それが紙の本となると尚更だ。漫画は勿論、動画や配信にゲームと、娯楽は多様化しているのだ。特に今はやれコンプラだ、表現が残酷だと、いろいろな作品が手を加えられ原典を失いつつある。『復讐のない巌窟王』は、それらの分かりやすい一例だ。このような本が増えれば、読者は本に疑心暗鬼になってしまう。それは他にもある様々な本を読む人間が大きく減るのは明らかだ。

我々のような読む側は、昔こそ本の中が全てだった。しかし今は様々なツールにより、情報の取捨選択や事実の裏取りが簡単にできるようになっている。つまりその物語が本当に原典と一緒なのかという、疑問を簡単に打ち払えるのだ。そんな社会でこういった本を出すのは、巌窟王への読者の信頼を失うことになる。自分の創作小説であるなら責任を負うのは自分だが、過去の名作であればそれに泥を塗るようなことになる。全ての本を読むことが出来ない時代であるからこそ、このように大元の物語とは別の部分で信頼を失うような真似をしてはならないと、自分は考えている。

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